昭和四十七年三月十八日 朝の御理解
X御理解第九十六節 「世の人があれこれと口端にかけるのも、神の比礼じゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる」
人間の人智、人力といったようなものは、その場または目先のことだけしかわかりません。ここにありますように、先を知ってはおらぬぞと仰る。人間のことですから、先のことは知ってはおりません。そこで先を知ってはおらんとおっしゃる、その先、その先がおかげにならなければ駄目なのであります。いわゆる神が顔を洗うてやると仰るように、神様から顔を洗うてもらうようなおかげを頂かなければ駄目です。問題はここのところを絶対のものとして、と信じて信心をさせてもらうことだと私は思う。
先を知っては居らぬ。それは私ども、先はわからんけれども、おかげになると信じて、神様が顔を洗うて下さることを信じ切って行く生き方でなかったら、人がとやこうと言っておったように、まあ悪口を言うておったとするならば、悪口の言われる放しになるじゃないですか。例えば悪口を言うておった人でも、成程神様じゃなあと、成程信心とは尊いものだなと言われる時、はじめて顔を洗うてもらうことになるのですよ。
けれども果して、それだけのおかげを頂いておるお道の信奉者がどれだけあるだろうかと思う。「まああれだん信心が無かけん、どげなことでも言う」と言われ、言うた流しではないかと思うですね。言うておった人達も、成程と合点が行くような、私はおかげを、だからこそ、先を知ってはおらん。先はもうおかげの世界があるのみだと。神が顔を洗うて下さる、神が顔を立てて下さる。だからそこまでは、私どもが行かなければねおかげにならんのです。手前の方でいつまでもぐずぐず、ぐるぐる回りの信心しよったっちゃ、いわゆる、言われっ放し、悪口を言われっ放し、それじゃつまらんでしょうが。
私は今朝方こんなお夢を頂いた。まあそれはお夢とは言いながら大変な高い山なんです。その高い山の頂上に、丁度ここに旗竿がありますね。ああいう旗竿の何倍もあるような大きな、丁度竹のように節があるのですよね。まああれの十倍とは言わんでしょう、高い旗竿のようなのが立っているのです。「これに登らなければならん」と言っているのです。これはもう倒れるとか折れるとかは絶対ないと保障が付いているわけです。
けどもその山の頂上、またその上に立っている、竿のようなものですから、とてもそれはちょいとそれこそ落ちどもしたら大変なことです。けれどもそれにしがみ付いて登ってさえ行く限り、絶対上まで登れるという竿。それを私が一生懸命登っているとこ、途中で一寸下を見たら、もう目の舞うごとあるからもう下見たらいかんと思うて、一生懸命上に登って、一番竿のてっぺんのところに登って、それから下って来よる。下る時は大変気持ちの良いすーっと降りて来た。降りて来てから、こう眺めながら、ようあれに登ったもんだとこう思った。
そして降りたところに簡易なお食事の準備が出来ている。「どうぞ召し上がって下さい」とこう言う。頂こうかと思ったけれど、「まあ家に帰れば家の者が皆心配して待っているから、家に帰ってから頂きましょう」と言うて、頂かずに降りて来よった。山と山との間にずーっと道があって、その山の土が丁度あの何と言うでしょうかね、ハイオと言いますね、お魚の切り身、あんなにこう目がある。丁度お魚の切り身の様にあるんですね。両方の【】にこう土手がこう出たところ、あらこれはまるきり魚のようにしとる。
そしたら誰かが「上って御覧なさいませ、とってもおいしいんですよ、中々美味しいもんですよ」と言う。こうはぐと二・三寸真四角位にはぐれるんですよ。丁度魚のお煮付けを植付けしたようにしとる。「上って御覧なさい」と言うから頂いて見たら、まとてもおいしいのです。ほうこの辺の上は、上でも食べられるたいと言うような、お土産に少し持って行こうと言って、少し【】はいでから、まあやんかて重箱一杯位はいで、そして帰っておるところでした。帰ったら御信者さん方が皆おられましてね、先生が昇ったのは、私が昇ったのがわかったでしょうと、「はあ一番上まで登られるのがこちらからよう目に掛かりました」と言うておるところで目が覚めた。
私はね、そして九十六節を頂いてみて、恐らくその山に登ると言うだけでも、人は「信心とはあげなもんじゃろうか」と人は言うかも知れませんし、それにまた上ったからと言うても、一銭かとでもなるわけじゃなし、登るてんなんてん、落ちどんすんなら危なかがと、成程落ちてれば危ないでしょう、放せば、けども竹の節のごとあるとがあって、誰でも登るようになってる。まあ一つのスリルを感じながら、楽しい、途中まで登って一寸下を見たところがあまり高いからびっくりしてから、これは下は見られんと思うてから、上だけを見て一生懸命登らせて頂いた。上に登り切ってから、降りる時はもう大変楽しゅう降りて来られてからという御理解なのです。
私はね信心とはそうだと思うのです。もう絶対のもの。ここでは私のことを亀と言う表現で頂くですね。言うならば竜宮に案内する亀のようなもの、亀の背中に絶対乗ってさえ行けば、もう竜宮行きはもう絶対のものなのだ。ところが、少し波がこうこうやって来ると、もう竜宮に行かんでん良かごとなって来る。こわい、そこから降りようとする。「もう降ろして下さい」と言う。自分勝手に元に戻ってしまうと、どんなに波が高かってもどうであってもね、これはもう絶対のものなんだ。だからその道すがらにです、人がとやこう言うことがあるわけです。大丈夫ですかと。それは神様そげん言いなさるばってん、こういう道もありますよと、いろいろ心配をごかしと言う訳ではないけれども心配して言うてくれるわけです。そうかも知れんなあとこう迷う。
昨日或る方から電話が掛かって来た。私は昨日寝ませて頂いとりましたから、親先生に是非と言うことであったけれども、寝んであるからと電話を聞いて、私の寝間にやって見えられました。西岡さんが、そして寝ながらそのことをお取次さして頂いたら、もう何べんも何べんも、或る意味で気が気でないことがあるわけです。その度にお伺いになるわけです。まあ、そのままそのままということでした。
昨日も「こういううちなら手の打ちようがある」とある人が言うて下さった。で、今のうちに手を打った方がよくはなかろうかということであった。だから「今のままでなからねばいけませんよ」と言って下さい。そして「バタバタしなさんなと言って下さい」とまあ申しました。御神眼に鶏の足をくくったところを頂いた。鶏が足をくくったらバタバタしますよね。バタバタしたからと言って足を解かれるものでもないものを。だから「そこのところをきつくあなたから言って下さい。バタバタしなさんなち先生がこげん鶏のお知らせを頂きなさったげなけん、バタバタしなさんなと言って下さい」と言うて申しましたことです。
いろんな一つの信心の過程においてはです、人が言うておるのが本なごとのごとある時があるです。人間心使った方が本なごとのごとある時があるです。それでもおかげにならんじゃないです。けれどもそれが本当のね、それこそ神が顔を洗うてやるというような素晴らしいおかげになって来んです。もう登り出したらもう絶対昇り貫かにゃいかんです。信心とは絶対ね、下から見るとえすかごとあるばってん登って見ると楽しいです。しかも途中で下を見るとえすかごとあるばってん下を見ちゃならん。人の言うことを耳に入れちゃならん。一途に神様神様と、一途に頂上を見指す以外にないです。しかもこれはもう絶対倒れない、折れることのない、登りさえすれば良いのだから誰でも出来る。その気になれば。
それを只下から眺めておるだけで、あ、ちょいと、けれども私が昇りはじめ、私が昇って見せたから、見とる、ならと言うて誰でも昇る。私が登り切らずに、皆に「登れ登れ」と言うのじゃない、登れるんだ。その時に私ははじめて、先は知っておらんというようなおかげがある。はっきりして来るのであり、神が顔を洗うてやるとおっしゃるようなおかげはそれから先しかないと思う。難しいごとあるようだけれども見易い、見易いようなごとあるけれども難しいということになりましょうねえ。
現に波がこう高い、浅い間は平気で、「ああ親先生任せになっときゃ一番良いですよ」と人にも言いよる。まだ浅か、飛下りたっちゃまだ背が及ぶ位、ちと深うなって波が荒うなって来ると、もうそれこそ青うなり白うなりしよる。親先生任せと言う限り、もう本当に度胸据えなければ親先生任せになれない。中途半端なことではいけん、しかもそれは絶対のもの、それを又何べんも何べんもお伺いしたり又人間心を使って少しづつこうこう変わって行く、純粋なものではない、そのところから又おかげも変わって来る。だから本当にままよとは死んでもままよということだと言う位な私は度胸なしには、本当の信心のおかげは受けられないと思うですね。
そこで登り出したらです、登る楽しみ、登るよろこび、それは必ずはっと思うようなこともある。言うならスリルを感ずる。それが又何とも言えん味ありである。どこまでも神様が先はしっておらんと仰ったり、神が顔を洗うてやると言うおかげは、どういうことかと言うと、花が散る、けれどもそれは結実をする前提なのだ。実を結ぶ、本当のおかげが頂ける前提なのだ。それを花がパッと咲くところだけをおかげと思っておる。只それだけのものであったら、よしそれが咲いても仇花である。花の散ることもまた有難い、昇っている過程にはそこがある。
そこに例えばそれが椿の花であるならです、いわゆるかていしと言う実は結実する。それが髪油の元になる。そこまで行った時はじめて神が顔を洗うて下さったことになるのではないでしょうか。成程こういうことになるとは、夢夢思わなかった。夢にも思わなかったようなおかげ、そういうおかげ頂いてはじめて、神様が顔を洗うて下さったことになり、成程私どもでは想像も付かん、先のことは知ってはおらん人間では、わかることではないところの世界、ですから信心するからにはね、やはり度胸が要るです。信心度胸と言われてます。只屎度胸じゃいかん。神様をやはり信じての、度胸でなからねばなりませんけれども、そこはまだ信心の薄い私達のことですから、時にはハッとするようなことがあるけれども、そのハッとすることもまたおかげである。スリルを感ずる遊びなんかが止められない程に面白いのと同じです。そのスリルがまたたまらん。信心で、もう先生あのときはどうなるかと思いましたと言うところも又通りぬけなければならん。「本当にあの時はお伺いしたら親先生が、バタバタするなと仰ったから、あれで腹が決まりました」と言うように、そういうところも信心が成就して行くためにはあるのです必ず。只これを登りつめてさえ行けば絶対のものだと、これだけは私の夢の中に表れて来る。絶対倒れるようなことはない、折れるようなことはない、しかも誰でも登れるのだと言うて下を見ると恐いごとある。
人の言うことを聞くとそのことが本なことのごとある。そこで下を見らずに上だけを見て登って見る。極めて見るのである。信心はだからね見易い、危なくない、只登りさえすれば良かとじゃけん。けれども実際はです、下から眺めておる間は難しかろうごとある。「とてもあなた達の真似は出来ん」と信心の無い人達は言うでしょう。毎日毎日朝早うからお参り、とてもそれは私だん出来ることじゃなか、お金でん何でん幾らいるかわからん。続かん。
ところがその気にならせて頂いたら、お参りも出来とる、お供えも思うとっただけでも、どうしてこげなことが出来るじゃろうかと思うように、ちゃんと神様が参らせて下さる。お供えさせて下さるということがわかるようになる。信心が、成程私が参りよるとじゃなか、私がお供えしよるとじゃないなということがわかって来る。それを信心のない者は、「とてもとてもそげな参る時間はなか、とてもそげなお供えだけでも、日にあなた幾ら【】も要るじゃないの」と言うことなんです。ところが出来るから不思議なんだ、信心とは、それが神様をいよいよ信ずる力ともなって行く。
私の夢の中に登って降りて来たらそこに御飯の用意が出来ておったということは、それはままになるということでしょうね。それでも私は、家の者がまあ心配しとろうけん家に帰って食べようと言うて、下って来よる、その途中の土が全部食べものになってしまった。通りぬけるところを通りぬけさせて頂くことによってです、本当にそこに神愛を悟らんわけに行けん。神様の働きを信じんわけにはいけん。
成程人がとやこう神の比礼と仰るが、顔にかかわるようなことを言われてもです、成程黙って、先を知ってはおらんぞという先を知って、信じて進んで行きさえすれば、あれもおかげであった、これもおかげであったとわかるようになる。土が食べられるとはそういうことだと私は思う。言うなら土の信心が有難うなって来る。黙って受けて受けて受け抜いて行く、その信心が素晴らしいことがわかって来る。人が何と言おうとも、それこそ顔にかかわるようなことを言うても、それを黙って受けて行く信心が、それを登って行くうちに出来て来るならばです、降りて来た時には、すべて、あれもおかげこれもおかげであったことがわかって来る。
又の御理解に、「信心は山登りと同じだ、登って向うへ降りたら安心じゃ」と仰るように、御教えがありますように、私が登ったというその高い塔を、それを登って降りた時に、それを登る間に、一切の信心が身についておる、任せ切るという信心が出来ておる。度胸が出来ておる。降りた頃には、もうあれもおかげこれもおかげとわからせて貰う程のものが身について来ておる。成程「向うへ降りたら安心じゃ」と仰ることがわかるですね。
誰が何と言うても、土のような信心で黙って、成程顔色を変えなければならんようなことを聞くかも知れません、見るかも知れませんけれども、それを生神金光大神と頂きぬかせて頂いて、「先生どうしましょうか」と言うこともあるけれども、「バタバタするな」と言われたら、それで腹が決まって、それを受け抜いて行くようなです、信心させて頂くところから、極めさせて頂くところまで極めさせて頂く。
極めるところまで極めると言えば、えらい難しかごとあるばってん、いっちょも難しいことではない。登りさえすれば、上を向いときさえすれば良いんだ。そして登って降りたら安心じゃと言う、そこまでを頂かせて頂くことが信心である。それを降りた時こそ、成程神様が顔を洗うて下さる。成程先を知っては居らぬ、人間は先のことはわからん。それこそ登るだけで夢にも思わなかったおかげの展開がなされて来る。それこそ夢にも思わなかったようなおかげ。 だから私の信心の一生と言うかね、半生と言うか、私も生まれた時からの信心ですから、一生と言うてよいけれども。なら私がこの二十何年間、終戦そして引上げという辺りのところの信心から、もう私はここを登る一途でしかなかったということ。登って降りた時には、もうそれこそあれもおかげこれもおかげと、一切を御事柄として受けて行けれる程しの信心が身についておった。もうそれこそ夢にも思わなかったようなおかげの展開が今日の合楽の姿である。 だからそれを皆さんにも、私が登っておる姿を皆さんに見て貰うた。そしてこれは絶対という、倒れることはない、折れることはないという。それに私どもが一つ度胸を据えて登って見る、登ることによって高められて行く楽しみ、喜び、たまにはスリルを感ずることがあるけれども、とにかく上を向いて、そこには御取次を日々頂いて、びっくりするようなことを聞いても、それで青うなって下へ降りて行くことのない信心をさして貰って、神の背中にしがみ付いて放れんという気持ちになって行くならです、竜宮行きは絶対のものなのです。
その絶対のものを信じ、絶対のものを極めさせて頂くということが信心なんです。中途半端ではわからん。その間には花が散ることがあるかもしれん。けれどもそれは結実の前提だという、有難いこととして頂きぬいて行く。そこに結実。かつていしがなって、それが絞られて髪油になって、最高の髪油ですね。信心をする人達の手本になるようなおかげを頂いて、しかもそれを残しておくことが出来る。今日の御理解、神の比礼じゃと。人がとやこう言うのを、まあそれを普通これは、ここのところは絶対のものとしての頂き方ではなかったですね今までは。神が顔を洗うてやるとか、先は知っておらんと言うところに焦点を置いて聞いて頂きましたですね。
どうぞひとつ、おかげを頂いて、信心でもやっぱり、只糞度胸じゃいけません。只親先生任せになっとけば良かがのじゃいかん。任せことがどういうことか、それを言うなら日々の信心生活の中からしっかり頂いて、自分の力にして行く、力にして行くから自分の度胸が出来る。度胸というものでなからねばいけません。そしてそれこそ、矢でも鉄砲でも持って来いといったような、どん腹据わった信心をさして貰っておかげと頂く。
まあ結論は、土でも有難く頂けれるということ。一切が、あれもおかげこれもおかげとわからして貰うためにも、上って下って来なければ身にはつかないということ。それは難しいことのようであって見易い。なら誰でも登るたいというようだけれども、実際に登って見なければです、大変下から只眺めとるだけでは難しいことではあるのですね。
どうぞ。